風は西から雨は南から
彼女は、自分の言葉を捨てようとしていた。
ミリセントにせがまれて、彼女の「中部訛り」を矯正したのは私だ。農村地方らしい牧歌的な発音を捨てようとする彼女に、そんな必要はないだろうと言ってみたが、それで折れる人ではない。折れたのは私の方だった。
「私ね、20歳になったら王都へ働きに出ることに決めたの。そのときにこんな田舎臭い方言で喋ってごらんなさいよ、まともなところじゃ雇ってもらえないわ」
ミリセントが言い終えるや否や、ダイアメイドは鼻と口から勢いよく紅茶を吹き出していた。せっかくのセカンドフラッシュだというのに、もったいないことをする。
「ダイア汚い」
ミリセントは彼に軽蔑の目を向けながらも手早くテーブルを拭く。ダイアメイドの主張はこうだった。
「働きに出るって何? ランミュルから出るってこと? まさか女一人で行くわけないよな、それまでには誰かと結婚でもするつもりで――」
「しないって言ってるでしょ!?」
ミリセントの怒号とともにカップが勢いよくソーサーに叩きつけられる。拭いたばかりのテーブルに、また茶色い飛沫が飛んだ。最近の彼女といえば、この手の話題で毎日のように両親と揉めていて、両者の対立は日ごと激しくなっていた。今朝だって、ミリセントがまたしても縁談を断ったために彼女の母親と一悶着あったらしい。らしい、とは、ダイアメイドから伝え聞いたからだ。彼はその現場の目撃者だというのに、こうして自ら火を放つのだから理解に苦しむ。
「そういうわけですからラケシス卿、よろしくお願いいたしますね」
まるで淑女のように恭しく言ってのける彼女であったが、この時点で既にひどく訛っている。しかし、この伸び伸びとした言いざまを失うのが惜しくて、私は敢えて指摘しなかった。
そんな感傷が、彼女の足を引くかもしれないとも考えずに。
「“風は西から、雨は南から”」
「か、かぜ……は、イー、から」
「違う。無闇に語尾を落とすな。母音を単純化するな。“風は西から、雨は南から”――ほら、もう一度」
実際のところ、長年慣れ親しんだ発話を正す作業は困難を極めた。例えば、「u」を「o」と発音しないこと。例えば、「ow」を「aa」とはしないこと。音節ごとに変わる、正しいアクセントの位置があること。挙げればきりがなかった。文字にしてしまえば大した話ではないように見えるが、単語レベルでの覚え直しにも等しいこの矯正学習に、ミリセントは予想以上の苦戦を強いられていた。それに、教えるにしたって夏の間だけであるから、彼女が自学自習できるようにしておかねばならない、という問題もある。彼女が20歳を迎えるまであと1年もないというのに、それまでに母語と公用語の矯正など、とても間に合う気がしなかった。
一方で、「面白いもんが見れそうだから」と冷やかしで同席していたダイアメイドの方が、ミリセントよりも先に正しい発音を会得してしまった出来事は私を驚かせた。彼にも「北方訛り」とでも言うべきかなり強烈で独特なアクセントと発音で話す癖があったのだが、それをさらりと直してみせた。恨めしそうなミリセントに、ダイアメイドはいつも通り余計なことを言う。
「ラケちが言った通りにすりゃいいだけじゃん、ミリーってば頭固いな〜。もう諦めなよ。ていうか俺で妥協しない? 一生苦労はさせるけど、そこそこ幸せにはするよ」
ミリセントが暴力に訴え出る前に、私が彼の頭を本で叩くことで鎮火を急ぐ。仲良く揉めている時間などない。毎日、就寝前の30分から1時間。私たちが何とか捻出できた時間はそんなものだった。何より妙齢の男女が夜に集うのは憚られたため、ドアのない厨房で蝋燭を焚き尽くすほど燃やして行う奇妙な集まりであったから、当然、無闇に時間を延ばすことも避けねばならない。昔は、こんなことをする必要などなかった。ただ同じ場所にいて、好きな言葉で笑っていれば、それでよかったのに。
「しかし、まあ……私が教えられないときはダイアメイドと練習したらいい」
学習進度が全く変わらないミリセントにそう言い残して、その日はお開きとした。
何だか無性に疲れる、というのが率直な感想だった。身体ではなく、もっと別のところが。まるで、人を一から作り直すような所業だと思った。正しくないことではない。そう思おうとしている。彼女の人生にとって、糧となるはずだ。けれど、正しいことをしているのかはわからなかった。正しく測るべきものに手を加え、触れるべきではない糸に、指をかけている。
部屋に戻れば、今朝までは物に埋もれて見えなかったはずの床が見えていて、なおさら重い溜め息がこぼれる。アップルスウェイト家の誰かが掃除でもしてくれたのだろう。しなくていいと、いつも言っているのに。他人の手によって整頓された私室では、どこに何があるのかを探すだけで気が滅入る。築き上げた生活動線が白紙に戻されたことに若干の憤りを覚えずにはいられない。あれは散らかしているわけではないと何度言えば理解してもらえるのだろう。着替えを見つけ出すことを諦めてベッドに潜り込めば、リネンから漂うガリカローズの香りに、ああ、と思った。少しだけ土の香りを含んだ、奥ゆかしい甘さ。他の薔薇とは一線を画す、華やかさとは別の強さを感じさせる香り。それは、ミリセントがベッドメイキングをした印に振りかけるローズウォーターの香りだった。
そうか。この部屋を整えたのは、ミリセントか。
瞼の裏で、彼女の姿を思い浮かべる。懸命に言葉を正そうとする彼女の横顔を。この深夜の学習会がどこへ向かうものなのか、そのときの私にはまだ分からなかった。
ダイアメイドの言語習得能力は、ただ器用なだけの話だろう。あいつはあれでいて三つの言語を操るのだから。失うものがない者の、軽やかな身のこなしだ。だがミリセントのそれは、何かを手放しながら進むような、不器用な歩みだった。不器用なくせに、舗装された道から外れようとする。茨の道を、素足で歩こうとする。けれどそれは、痛みと引き換えに、薔薇の色を決められる人の歩みだ。素足で踏みしめる大地の心地よさを知っている人の歩みだ。夜露に濡れることを喜べる人の足だ。
一体何が、彼女をあんなふうにしたのだろう。
少女の柔らかな足は、傷など知らずに歩くべきなのに。しなくていい苦労をする必要なんてない。都会への憧れなんて憧れのまま終わらせるべきだと、そう思わずにはいられない。一度踏み入れたら、もう思ったままの言葉で笑える場所ではないのだから。
だから、どこかで勝手に挫折をすれば良いと思っていた。
夏も終わりが見え始めた頃、そんな私の浅はかな願いを裏切るかのように、ミリセントは少しずつ教えを身に着けだしていた。荒削りではあるが、以前よりずっと都市部らしい話し方ができている。たかだかそんなもので、ミリセントの印象は随分変わって見えたのだから不思議だった。このまま磨きをかけてドレスで着飾らせたなら、――田舎育ちの労働者階級の彼女も――それなりの貴婦人に見えるようになるのだろうか。あのミリセントが?
「ミリーにあんなしょうもねえ喋り方教えるなんてさ。お前、どういうつもりなわけ」
ラベンダーの香りに混じって、頭上からダイアメイドの声が降る。長椅子に横たわる私の髪を洗う彼の手つきは、いつもより少し雑だった。
「頼まれたから教えてるだけだろ。私の趣味じゃない」
「へえ、騎士さまってのは随分と献身的なんだな」
ダイアメイドの特徴的なアクセントが部屋に響く。彼は結局、「北方訛り」でしか話そうとしなかった。使えるからといって使いたいわけではないのだという。
「行き遅れかけの女を娶ろうとするお前をして献身的とは光栄だ」
「俺のはそんなんじゃない」
言いながら、やはり湯を惜しげもなくかけていく。これならば、ただの湯にするべきだったな、と無駄に流れていくラベンダーの香油たちを不憫に思う。買ったばかりなんだぞ。もう少し丁寧にやれ、とは言わない代わりに、言葉に毒を混ぜる。
「へえ。じゃあ何? ああ、お前の場合は純粋な好意か。邪魔して悪かったな、あいつが外へ出る手助けをしてしまって」
その言葉を最後に、髪から湯が滴り落ちる音だけが残る。打てば響くダイアメイドが黙り込むのは気味が悪い。さすがに悪意のある言い方をしすぎたか。そう思ったとき、彼の冷めきった呟きが落ちる。
「俺を最初に呪ったのはミリセントだけど、それを解いたのもミリセントなんだよ。だから今度は俺があいつを呪うことにしたってだけ。外に出たいって言うあいつを、本気で止められるわけないだろ」
そして何事もなかったかのように、再び私の髪を湯で濡らしては櫛を通す。今度は先ほどよりもいくらか丁寧だった。ダイアメイドの発言に、何を言っているんだ、とは思ったが、わざわざ口にするのも億劫で、頭の内で反芻してみる。呪われたから、呪い返す。実に“森の人”らしい物言いだ。
ダイアメイドの腕が動く度、湯気の中から彼の身に染み付いたイラクサの香りが、かすかに鼻をかすめる。ラベンダーの穏やかな香りを易々と押し返す、“森の人”の匂いだった。そういえば昔、イラクサに刺されたことがある。もちろん私ではなく、ミリセントが。腫れただけだったが、止めるのも聞かず掻きむしったせいで跡になってしまったのだ。彼女の足首には、今でもその跡が薄く残っていた気がする。当時、ダイアメイドは彼女の足を手当てしながら、妖精に印を付けられたのだと、確かそんなことを言った。
「ガキの頃にさあ、あいつ、俺のこと好きだって言ってきたんだよね」
ふいに意識が引き上げられ、繋がりかけた思考が霧散する。そんな話を、なぜ今するのかは分からなかった。
「まあ正確にはお前らが、って話だったけど」
すぐさまそう付け足すダイアメイドの言葉に、勝手に私を巻き込むなよ、と思わず差し込んでしまう。視界の端で、彼の背を流れる赤毛が揺れた。
「大事なことは言っておくべき、なんだってさ」
「ミリーらしい」
「だろ? でも俺、当時は素直に受け取れなかったんだよな」
その一言で、それがいつ頃の話なのか、何となくわかった気がした。彼が「北方訛り」を使い続ける理由も。イラクサの混じるラベンダーの香りは、どうにも気が休まらなかった。
「本当は嬉しかったし、言葉のままに自惚れるべきだった。ああいうことを直接的に言ってくれるのって、ミリセントくらいだったのにさ」
馬鹿なことしたよなあ、とダイアメイドは薄く笑う。そんなふうに笑うなよ、とは思っても、他でもない私が言ってはならない言葉だから、やはり口にはしなかった。
彼が指先で私の前髪を払う。濡れた髪が、少しずつ湯で重くなっていく。
「あのとき、外に出るってのがどういうことか、やっとわかった。どう生きるべきか、気付かされたんだ。だから、あいつがいつでも戻ってこられる場所をくれてやったって、妖精たちは何も言わねえさ」
つまり、それを献身的と言うんじゃないのか。ダイアメイドの言う呪いの言葉は、世界に逆らって独立独歩の道を選びたがる彼女が、いつでも正しい道に引き戻れる魔法の呪文に聞こえる。ミリセントの傷ついた足を、治してやれる呪い。
「甘ったるい呪いだな」
そう言いながら、完全に否定しきれない自分がいるのが、何より気に入らなかった。
結局、ミリセントが王都へ赴くことはなかった。彼女が20歳を迎えたとき、もはやそれどころではない事情に巻き込まれていたからだ。しかし後年、彼女は「正しい」言葉を手に入れて、ここまでやってきた。王都ではなかったし、国の外ですらあった。それでも。
「ごきげんよう、カニンガム卿。私たちのこと、覚えておいでかしら」
私の前に現れた見知らぬメイドは、驚くほど優美な発話で、私の国の言葉を話していた。
「今日は――南から雨が来そうね」
そう言って笑うその声は、あの頃と何一つ変わっていなかった。