保管庫

ミリセントとその少女時代の一端

子供の頃は、神さまを疑わなかった。 敬虔な信徒である両親は、毎晩ベッドで聖人たちの話をしてくれた。だから、司祭さまの説教を聞くのも好きだったし、家族で教会へ行く日曜日を心待ちにしている少女だった。何より、ラケシスも私の両親同様に敬虔な信徒だったから、私も彼が信ずる神を信じることにしたのだ。――彼が信じているものなら、きっと正しいのだと思えたから。 当時の私にとってラケシスは、夏にしか会えない特殊さと、身分差がありながら親族のような親密さを持つ特別な存在で、友愛と敬愛の憧れめいた感情を寄せる相手であった。幼いラケシスと手を繋いで神の家に足を踏み入れるあの時間が、かけがえのない光だった。秩序の中で、清く正しく生きる喜びに満ちていて、世界も私も、全てが透明だった。 正しく生きてきた私の世界に摩擦を作ったのはダイアメイドだ。ある年の夏に突然やって来た彼は、魔の印たる赤毛を隠しもせず、癖のあるアクセントで独特な言い回しをする少年で、妖精と暮らす彼の中に神は存在しなかった。だからダイアメイドは神の家に着いてこなかった。それは極めて自然なことだ。しかし、日曜日は皆揃って教会へ――という秩序が崩れ、ダイアメイドに留守番を頼んで教会へ、という秩序に変わる。これまでのようにラケシスと手を繋ぐとき、空いたもう片方の手が気になるようになった。赤毛の彼とも手を繋げるはずなのに。それを両親に伝えたとき、彼らは印象的な言葉を放った。 「あの子はあなたとは違います。神を知らぬ者と、同じ道を歩むことはできません」 それは責める声ではなかった。無知な子どもに世界の理を教える声だった。確かにダイアメイドは「森の人」で、悪魔と魔女の子で、人種も、信仰も、言葉も、私とは違う。けれど、そんな「当たり前」を素直に受け取れないほどに少女の私は純粋だった。私の中でダイアメイドはラケシスと同じ透明な存在と化していたのである。いつしか私は祈れなくなっていた。 神よ、彼をお救いください。――けれど何から?赤毛で生まれたことから?神を知らぬ森に生まれたことから? それは救いではない。秩序も、神も、正しさも。私は初めて疑った。神さまは、なぜダイアメイドを最初から輪の外に置いたのだろう。その疑念は祈りよりも熱かった。私たち家族と離れた席で手を組むラケシスの姿を盗み見る。ここらでは少し珍しい金の髪が、陽に照らされて光を散らす。それは一点の曇りもない、正しい人の姿に見えた。彼は私のような疑念を抱いてはいないのだろうか。彼も私と同じ気持ちなら。それだけが一縷の望みだった。 「ダイアも教会に来たらいいのにね。ラケもそう思わない?」 さり気なく、そんなことを尋ねたことがある。彼も同じ考えなら、大人たちがどうであれ私たち三人は手を繋げると思っていたからだ。ラケシスは少し考えてから口を開いた。 「どうだろう」 なんともはっきりしない答えに、私は少なからず動揺した。 「村の人たちは“森の人”を見慣れていないから……あまり良い結果にはならない気がする」 ラケシスの婉曲的な回答に私は口を噤む。それは正しい答えだったからだ。けれど私はどこかで、その正しい答えを否定してほしかったのだ。私が正しいと感じる彼の言葉で、私は正しいのだと言ってほしかったのだ。 ちょうどその頃、私はあることに気が付いていた。それは、屋敷に来客があると、ダイアメイドは決まって物陰に隠れる、ということだった。両親がそうするよう言ったのか、彼が自発的にするようになったのかは分からない。けれどそれが、どちらであっても良いわけがなかった。その行いにどんな理由があるのかなんて考えるまでもない。屋敷の人間以外は“森の人”を「見慣れて」いないからだ。恐れているからだ。伯爵家に良くない噂が立つからだ。しかし、なぜ彼がそんなことをしなければならないのか?ラケシスの懸念は正しい。ダイアメイドの行動もまた、正しい。それでも私は、それらを肯定したくなかった。 ――正しくないのは、私だ。 その頃から何となく、少しずつ。日曜日にはラケシスと手を繋がなくなった。大人たちはそれを「思春期だものね」なんて茶化してくるので、そういうことにした。日に日に世界が透明ではなくなっていく。 「ねえ、ダイア。私たち、あんたのこと好きだからね」 夕方、ダイアメイドと肩を並べて靴磨きをしながら、私は彼に言った。ダイアメイドは私に目もくれず、手を動かしながら「何?頭ぶつけた?」とだけ答える。 「ばか。ラケシスはこういうこと、ちゃんと言わないでしょ。だから私が言うことにした」 「はあ?」 意味わかんねー、と彼は興味なさそうに二足目の靴に手を伸ばしていたが、その瞳の青が赤みを帯びたのを私は見逃さなかった。ダイアメイドの感情は、顔ではなく瞳に現れる。これは、いつの間にか本心を隠すようになった友人の、私だけが知る秘密だった。 昔は、そんなもの必要なかったのに。 ダイアメイドの世界は、もう透明ではないのだろうか。 器用な友人の歩く道に、花が咲くように。それはもう、妖精でも死神でもいいと願ってしまった祈りだった。 「ダイアはどうなの。私たちのこと、好き?」 「気色悪ぃな、急にどうしちゃったわけ」 私がにじり寄るごとに、ダイアメイドは同じだけ逃げていく。「はい」か「いいえ」で答えられる問いを、彼は頑なに答えようとしない。そうこうするうちに壁際までやってきてしまった。 昔、同じようなことがあった。あのときも私はにじり寄って、彼は同じように逃げていた。それは、私が初めて“森の人”を見た日のことだった。“ダイアメイド”と上手く呼べないラケシスを、笑った日のことでもある。ダイアメイドは、今よりずっと自由でいられた。きっと彼は、否定するだろうけれど。 「大事なことって言っておくべきだと思ったのよ。私とラケは、ダイアのことが好き。忘れないでね。これは大事なことだから」 「……あっそ」 それだけだった。拍子抜けするほど軽い返事。けれど、彼の青はほんの僅かに揺らめいていた。私は靴と向き直って、そこからは黙って磨いた。 透明ではなくなっていく世界で、それでも保ちたいものがあるとしたら、それは――きっとこれだ、と思った。